五十夜目『傘』
これはMさんが愛知県T市で体験した話です。
Mさんは9階建てのマンションの3階に住んでいる。廊下に面した窓には防犯対策のために鉄格子が付いており、そこに傘をかけている家庭も多く、Mさんもまた同様に傘をかけていたのだ。
ある日帰宅すると、鉄格子にかけていた数本の傘に紛れて見知らぬ赤い傘がかかっていたそうだ。
「一体誰のものなんだろう」
わざわざ3階まで上がってきて、傘1本を不法投棄するとは考えにくい。知人が忘れていったのかもしれないと思ったのだが、最近訪ねてきた人もいない。
結局傘の持ち主に検討がつかず、かといって1階の管理人室まで持って行くのも面倒。金属ゴミの日に出すのも、そもそも私の家の物じゃないのになぜそこまでしなければならないのかと、とても億劫になりそのまま放置することにした。
それから数日経ったある日、近所の保育園に通う子供を歩いて迎えに行った帰り道。Mさんは子供と歩いていると、前の方に女の人が立っているのに気づき、子供が迷惑をかけてしまわないよう、女の人を大きく避けるようにして横を通った。
微動だにせず、俯いている女の人に言い知れぬ不気味さを感じて自然と足が早くなった。特に何かあったわけでも、何かされたわけでもないが、何とも言えない感覚にMさんは振り返って女の人を確認した。
雨用の傘を、天気の良い日にさして佇む女の人の後ろ姿が少し離れた所に見えた。
「あ」
Mさんが感じたのは『既視感』だった。見も知らぬその女の人に既視感を感じたのだ。正確に言えば女の人の持つ赤い傘をMさんは最近見たことを思い出した。
家の前に来ると、その赤い傘は鉄格子にかかっているものと恐らく同じものだと思った。
「ただいま」
「おい、聞いてくれ。今すごいもの見ちゃったよ」
夜勤明けの夫が、やけに興奮した様子で話してくれた。夫はリビング横のダイニングキッチンで、飲み物を探していたそうだ。その時、玄関とリビングを繋ぐ廊下をダダダダダと物凄い勢いで走る女の人が何度も通ったそうだ。
「あああああああ」
大きな口を開けて、笑い声にも聞こえる低い不気味な声を出して走る女の人を、夫はただ見続けることしか出来なかったそうだ。
「それってもしかして…」
Mさんが先ほど見た女性の外見的特徴を話すと「そいつだ!」と、夫が見た人と一致した。
あの傘を置いていくのは良くないと思ったMさんは、知り合いの霊媒師に会いに行くと
「またおかしな傘を持ってきたね」
と、要件も話していないのに見透かされたそうだ。傘はそのまま霊媒師の方が預かってくれたので、傘に関する怪異だけはなくなったそうだ。