百九十六夜目『きぃ』
浴室から出ると、着替えも済んでいない俺に妻は
「何か変な音がする」
と言ってきた。
時刻は既に2時を回ろうとしている。もう寝たいというのが本当の所だが、妻の話を聞いてやらないと解放されそうもない。
その時妻はリビングで読書をしていたらしい。
きぃ…きぃ…きぃ…
と、どこからか音がした気がした。
顔を上げて周囲の様子を窺ったが、特に変わった様子はない。
再び手元に視線を戻すと
きぃ…きぃ…
また音がした。聞き間違いではないようだ。
住んでいるのは狭い賃貸アパートで、音がした方は凡そ把握出来る。
その音は金属が擦れるような、ガラスを爪で引っ掻くような、そんな音だった。
きぃ…きぃ…きぃ…
不規則に聞こえるその音、最初に頭に浮かんだのは古いチェア。
背もたれに体を預ければ、軋んで不快な音がする。少しでも体勢を変えれば、重みに耐えかねてすぐにでも壊れてしまいそうなキャスター付きのイスだ。
音のした方にある部屋は、夫婦の寝室と子供部屋。
寝室にはそんなイスは無く、子供部屋には勉強机とセットで買ったイスがある。
また娘が夜更かししているのだろうと思い、扉をノックしてから開けると、既に部屋は常夜灯がつけられ、娘は二段ベッドの上でスマホを弄っていた。当然イスになど座っていないので、予想は外れた事になる。
「変な音しなかった?軋むようなきぃきぃって音」
「知らないけど…」
娘は音を確かめるように二段ベッドを揺らしてみた。
ぎっぎっぎっ、と鈍い音がするだけで、あの音ではないのが分かった。
こうなると音の正体が分からない。
まさか、外から誰かが窓を引っ掻いているのでは…?
そんな気味の悪い想像が頭をよぎったそうだ。
「ねぇ、あなた。何の音だと思う?」
しばらくその音を待ってみたが、一向に聞こえて来ない。
「聞いてみない事には何とも言えないよ。とりあえず、また聞こえたらすぐに教えて」
どうせ空耳だろうと決めつけ、俺はさっさと寝る準備を始めた。
いつまでも考え込んでいる嫁を尻目に、さっさと寝ようとベッドに潜り込んだ。
「この音」
妻の視線の先にはきぃ…きぃ…と軋む、俺の潜り込んだベッドがあった。