六十九夜目『ため息』
これはAさんが福岡県H市で体験した話です。
私がまだ大学生だった、二十歳頃の真冬の事。
一人暮らしをしていた家からキャンパスまでは、バスと電車を乗り継いで約一時間半。その日は一限目から授業が入っていたため、私はまだ真っ暗なうちから家を出て、風よけと錆びた青いベンチだけの古いバス停でバスを待っていた。朝には弱いタイプな上、しょぼしょぼと降る雨が優しくバス停の屋根をたたき、私の眠気を誘った。
いつもこの時間このバス停から乗るのは私だけなので、マフラーに顔を埋め、目を閉じてうとうとしていると、隣から小さな溜め息が聞こえた。顔を上げて周りを見ても誰もおらず、気のせいかとまた目を瞑ると、今度はもっと大きな
「はぁー…」
という溜め息。しかし近くには誰もいない。何だろう、と思っているうちにバスが到着し、私は左前方の一人席に座った。そしてぼんやりバス停に目をやると、ベンチの辺りになんとなく人のような形の黒いもやが漂っているのが見えた。
俯き加減に座っている中年男性のようにも見える、曖昧な輪郭のもや。バスは30分おきに学校方面へと向かうこの一路線だけなので、他の便を待っているお客さん、ということもありえない。
それから2年間、同じバス停を利用し続けたが、不思議な体験をしたのはこの1回だけ。
昔死亡事故があってバス停の近くに花が…といったこともなく、あのもやは一体何だったのか、今でも謎のままだ。