百八十九夜目『帰る場所』
これは東京都H市にお住まいのMさんから聞いたお話です。
私の父は個人タクシーの運転手をしていました。父曰く終電帰りの駅周辺は酔っ払いが多く狙い目だそうです。
今から十年ほど前、深夜に駅周辺を流していた父は風変わりな男と出会いました。酔っ払いにしては身なりがきちんとした三十代の会社員で、俯いたまま片手を挙げています。
男性を見た瞬間、父は何故か嫌な予感がしたそうです。できれば素通りしたいのですが、呼ばれてしまった以上そうもいきません。
渋々ブレーキを踏んで後部座席のドアを開けた所、男が音もなく乗り込んできました。
「どちらまで?」
ひどくぼそぼそと聞きとり辛い声で男が指定したのは、高台を拓いて造成した住宅地でした。
走行中の車内には重苦しい沈黙が立ち込めています。乗り込んだ男は一切喋らず瞬きもしませんでした。
やっぱり生きてる人間じゃないんだと直感した父は、得体の知れない男を車から下ろそうと決意したものの、足は意志を裏切ってアクセルを踏み、手がなめらかにハンドルを回し、まるで誰かに体の自由を奪われたのような状態でした。
一体自分はどうなってしまうのか……パニック寸前まで追い込まれた父をよそに、後部座席の男はぼんやり窓の向こうを見詰めていました。
三十分ほど走り続けるとT霊園が見えてきました。目的地の住宅地はこの手前にあり、やっと解放されると安堵の息を漏らすも束の間、男の様子に変化が起こります。
「そうだ俺は……ああ、なんてことだ」
「どうされましたお客さん。こちらでいいんですよね?」
目を見開いたまま悔やむ男を遠慮がちに窺えば、彼は
「目的地の変更です。Т霊園に行ってください」
と丁寧に頼みました。
幸い住宅街と霊園はさほど離れていなかったので、父は数分とかからず男を送り届けました。
男はタクシーから降りると父に一礼し、暗闇に包まれた霊園の中に消えていったそうです。
翌日の昼間、男を拾った地点を通りかかった父は道端にそなえられた花束を目撃しました。そこでは一週間前に事故が起き、働き盛りの男性が命を落としていたようです。男は自分の帰るべき場所を悟り、無事に帰ったのでしょうか。