八十四夜目『病院での残業』
これはMさんが東京都にある病院で体験した話です。
私は、物心がついたころから他の人は見ることのできない何かが見える体質だった。
私の勤めていた病院はその地区では大きな総合病院。
仕事が終わらずその日は21時過ぎまで残っていた時の事。
仕事をしていたのは2階にある外来の診察室。一人で黙々と仕事をしていた。
20時頃トイレに行きたくなりトイレへ行くと私服姿の女性とすれ違った。
この時期、医療事務は忙しく夜遅くまで残る人は珍しくないため
「お疲れ様です」
と声をかけてすれ違った。
トイレから戻ると同じフロアで残っていた先輩に
「私は帰るから、戸締まりして帰るようにね」
と声をかけられた。
「まだ残っている方いますけど、どうしますか?」
「え?他部署で残るって話は聞いてないし、私たち以外はいないはずだよ?」
…あれ、さっきトイレですれ違ったのは一体。もしかしたら、あの人はトイレにいってそのまま上がったのかもしれない。
そう考えて残っている仕事を続けた。ある程度片付き、一段落していると
コンコンコン
リズミカルにドアがノックされた。
「どうぞ」
私が声をかけても反応がない。その代わりにもう一度、
コンコンコン
ノックされた。仕方がないと思いドアノブに手をかけた瞬間、私は嫌な予感がした。
これは開けてはならない。
と誰かに言われた気がした。
私はこのノックを無視し、急いで帰り支度を済まし裏から出てそっとフロアから出ることにした。
逃げるように、後ろは振り向かずにその診察室から離れた。
エスカレーターに続く短い廊下が、今日はやけに長く感じ、歩いても歩いても一向にたどり着かない。
思わず小走りをした瞬間、何かが足に絡まり転んでしまった。
ふと足を足首を見ると、そこには人間の長い髪の毛があった。
恐怖で身体が動かなくなった私に
「大丈夫?」
と声がかかった。
助かった!病院の人だ!と縋る思いで声がした方向を向こうとした時、
私たち以外はいないはずだよ
という先輩の言葉が頭をよぎった。私の視線の先にはさっきトイレですれ違った女性が立っており、その女性は私の知らない人。その女性は私に手を差し伸べていた。
その時、真っ暗だったためしっかり見た訳ではないが、差し伸べられた手は血に染まったものに見えた。
私は急いで足首に絡まった髪の毛を解き、早く帰って清めなくてはならないと思い、女性と目が合わないよう一心不乱に逃げ出した。
途中、謎の腹痛に襲われながら急いで帰り、手を塩で洗い、玄関に塩を撒き身体を日本酒で清め、「助かった」とホッとした瞬間、
ベタ…ベタ…ベタ…
部屋のどこから嫌な音がした。恐る恐る見回すと、窓に無数の手跡がついていた。
私はベランダにも塩を撒き、ベッドに潜り込んで怯えているといつの間にか眠りについていた。
今思えば恐らく、私に付いてきてしまったものの家の中には入れなかった為跡を残したのではないかと思う。
次の日から私はお守りを持って出勤し、あの診察室で仕事はしないようにした。
窓の手跡は綺麗サッパリなくなっていたが、足首には謎の跡が残っていた。
今は、病院を退職し別の職場で働いているが、未だにあの時の出来事が悪夢のように感じる。